real time

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24時間限定リアルタイム



自分の人生に他の人が入ってきて、
抱えていく自信がないんです












ボランティアの会社をやりたい











与えることへの依存



彼氏の嫉妬に疲れてきた彼女である。別れようかと何度も思ってきた。そんなときに彼氏の浮気が発覚してショックを受けたのだから、彼女はもう別れることを決断するに違いない、何の未練もない、と思いそうなところである。確かに「こときれる」ように力尽きて別れるということも考えられるが、おそらくは、そうあっさり別れることはないだろう。理由は二つある。

一つは単純に傷つけられたことである。我々は傷つけられると、傷つけた人のことを強く記憶に刻み、こだわってしまう習性がある。たんこぶを何度も触ってしまうように、心の傷も何度も触れてしまうのである。

もう一つの理由が本題だが、そもそもなぜ「別れるかどうか考えていた彼氏」ごときにこれほどまでに傷つけられるのだろうか。そんな重い人、浮気しようが何しようがどうでもいい、とは思わないのだろうか。しかしそう単純ではないのである。

彼女は重い彼氏と二年間付き合ってきた。「重い」ということ自体は嫌だったかもしれない。それが-80の威力があったとする。しかし彼女は彼氏の重さに何とか手を尽くしながら、与えることで、自分の存在価値を保ってきた面があったのである。自分が誰かの役に立つというのが彼女にとって大切なことであり、それがもしかすると+50ぐらいあったのかもしれない。その他に楽しいことも+50あれば、なんだかんだ付き合っていこうと思えるのではないだろうか。しんどい、でも、一人になってぽっかり心に穴が開くよりはまし、ということで2年間も続いてきたのだろう。

今回の浮気によって彼女が別れを決断する可能性も大いにあるが、傷つけられたことと、与える先(尽くす相手)がなくなることへの抵抗によって、しばらくは執着して別れたがらない確率が高い。「なんでこんなに手を尽くしてきたのに浮気なんかするわけ」という怒りが沸々と湧いて止まらないのではないだろうか。彼氏の重さに対して犠牲になることが、彼女の負担でもありながら「生き甲斐」の一部でもあったからである。自立側の立場から、「与えることに依存していた」のである。だから重い彼氏でもいなくなるのは怖い。

自立側は、依存側をいつも疎ましく思い、避けたがっていると思われがちである。自立側の本人すらもそう自覚していることが多いが、負担をかけてきて自分に期待している人がいるということで、生きるエネルギーをもらい、悪戦苦闘しながら生きていけるという側面がある。別れて、自分への負担がなくなったときに、確かにすっきりすることもあるだろう。しかし誰も自分に依存してこない状態が続くと、それはそれで虚しく辛い日々だと感じるはずである。負担は決して手放しで喜べるほどありがたくないが、苦々しくも自立の人に活力を与えているということを忘れてはならない。

自立側も依存側も、意外と「持ちつ持たれつ」である。それを自覚できたら、より平和なカップルになることだろう。

















与えられた理不尽から


ついにもう

あがく気力も失って



ここへ来た
















消費と投資





この問題文は、校長の知人夫婦の会話をアレンジしたものである。妻がやたらと「癒し」に金を注ぎ込むことに夫は納得できていなかった。疲れたのをたまに癒すのは良いのだが、癒しで体力がつくわけではないし、疲れを取るのと同じくらい、疲れづらい人になるよう努力しろよ、というのが夫の言い分であった。

問題文の彼女は自分の給料でのことだからべつに迷惑をかけているわけではないのだが、確かに若干不毛な感じがする。仕事の疲れを癒すために仕事を頑張っているからである。「仕事の疲れを癒すため」というのが100%ではなく、そういうこと自体が好きで趣味のようになっていたり生き甲斐になっていればまぁ良いのだが、それでも「仕事の疲れを癒すために仕事する」という濃度が高いほど不毛だろう。そのサイクルは無駄(ロス)が多いのである。

例えば借金の利息部分を払うために仕事をして、ほとんど借金の本体(元金)が減っていかない、貯金もできない、という状況はだいぶロスが大きいだろう。問題文の彼女は、ある意味、自転車操業のような状態なのである。仕事によって失うもの(体力や精神力)を回復するために、仕事で得たお金を注ぎ込んでしまう。回復に費やすコストが大きくなればなるほど不毛である。逆に、回復以外のこと、快楽とか生き甲斐とか仕事の能力アップだとかにお金を使う割合が増えれば、仕事の頑張りが効率よく自分の幸福に貢献していると言える。

さらに細分化してみると良い。失ったものへの「回復」に追われるのは不毛なのはそうとして、意味ある使い方の中でも、その場かぎりの「消費」と、自分に資する「投資」という2つの使い道がある。例えばマッサージが疲れからの回復だけではなく「生き甲斐」だとしたら、それは彼女にとって意味あることだが、それは「消費」である。例えば仕事の能力をさらに高めるためにスクールに通ったり、疲れづらい体になるための体質改善をすべくジムに通ったりしたら、それは「投資」である。投資にまわす余裕があれば、自分の仕事力が上がったり体力が上がったりするのだから、もっと給与が増えることになるだろうし、マッサージにお金をかけなくても良い肉体になっていくことにもなるだろう。将来の収益アップや費用ダウンにつながるのである。将来の自分を楽にすることになる。

自転車操業のような生き方が最も不毛なのはそうとして(仕方がない場合も多々あるが)、消費的な生き方と、投資的な生き方、という視点も持ってみてほしいのである。今日の自分が、昨日の自分より伸びているか、そういう生き方をしているか、で考えてみてほしい。

毎日5km歩く人と歩かない人、疲れるのはどちらだろうか。毎日5km歩く人は体力がついて、5km歩くことのつらさもだいぶ減るだろうし、他のことも活動しやすくなるし、病気にもなりづらいかもしれないし、よく眠れるかもしれない。毎日5km歩かない人は、毎日5km歩かなくて良い分かなりお得だが、健康グッズやサプリメントにお金を遣うかもしれないし、すぐ仕事で疲れるかもしれないし、上司の信頼も失って精神的に疲れるかもしれない。

自分に資するような「投資的な生き方」を検討してみてほしい。トータルで損だろうか得だろうか、と。しかも天寿を全うして死ぬときの満足感まで含めたら、さぁどうだろうか、と。目先のコスパで語れるほど単純ではないのである。




















建て前













年齢を重ねると、
エネルギーを失っていくし
希望を失っていくことが多いんだよな。


自由というキャンバスを与えられても、
そこにいっぱいに何かを描くほどの
情熱がなかったり、

そういう力とか希望がなかったりする。



だから自由をある程度は削っても、
結婚に落ち着きましょう、
ということになる。



自分の世界が広がっていくという
希望に満ちていなければ、

落ち着きたくなる。


結婚のウエイトが上がっていく。













「やりたいことをやりたい」

と言うのだから、

自分の時間とか、
自分の人生、

自由を保った上で何か
手に入れたいものがあるのかもしれないな。


そして恋愛では背負うものが大きくて、

愛の安定供給に
今は興味がないのかもしれない。


そういうバランスだったら、
そりゃ今の価値観では

「結婚する意義が分からん」と

なるのも分かる。













自由がどれだけ減るかは相手にもよるし、

相手と一緒にいられることが
どれだけ幸せかというのも相手によるから、

まぁいろんな価値観になるわなそれは。


相手のことが大好きすぎたら、
自由なんかクソ喰らえだ、

むしろ自由なんて寂しいものよりは

この人の胸ポケットに入って
生きていきたいぐらいだと思う人もいるし。
















寂しさと自由を失ってしまうことを
天秤にかけて、

ある程度自由を失うのは仕方がない、

愛し愛されるパートナーが
そばにいてほしい、

愛の安定供給も大事だ、

と感じるようになる。



もともと「自由」というものを
そんなに重要視していない人にとっては

圧倒的に「結婚」のほうが大事だけども、

自由を大事にしている人でも

ここは悩みどころになる。













寂しいからだよな。寂しいから。

寂しいというのは
愛情への飢餓感だけども、

お腹が減るのと同じように、

誰かに愛されていたいと思うから。



そして腹が減っては戦はできぬ、

というように、


寂しくても戦はできぬ、

なんだよな。













でも実際にたくさんの人が
結婚してるわけで。

結婚するにはするなりの
理由があるに決まっている。

自由をある程度失っても
結婚するのはなぜか。












結婚する意義が分からない、って。

結婚して自由が減るのは確かだし、
いったい何のためにするのか、って。

そう思うのはよく分かる。














相手の人生も、一緒に考えたいと


思える気持ちは


変わらずある












やっと掴めた。


わたしにとって

"結婚"は

すごくハードルが高かった。



自分の家族に、
自分を賭け過ぎてきた反動もある。



結婚生活が上手くいってないひとが

近くに、たくさんいすぎた。















あなたの物の見方が好き

あなたの目を通して世界が見られて幸せ












説教風の憂さ晴らし。情熱風の束縛。愛情風の干渉。すべてに共通して言えるのは、相手のためではなく、自分のためだ、ということである。











らしさ

彼氏の匂いが大好き、という人はかなりいるが、その匂いを彼氏と出会う前に電車の中で嗅いだとしても「いい匂い」とは思わないだろう。その匂いに、大好きな彼氏の存在がリンクしているから好きなのである。

彼氏の匂いがする布団とか、彼氏がいつも座る場所だけカーペットが剥げていることなどは、彼氏の日常がそこに表れている感じがして、彼氏の存在を強く感じるポイントなのだろう。もちろん彼氏は全くそんなことは意図していないし、良い部屋を作ろうとか、彼女に好かれる部屋を作ろうなどとも思っていない。ただ暮らしているだけだからこそ、あちこちに彼氏らしさが刻み込まれていく。彼氏のことが大好きな彼女は、彼氏らしさが出ている部分も大好きなのである。

出そうとすると出なくて、気にせずに生きていると出てくるものなーんだ、というナゾナゾのような話だが、「らしさ」というのはそういうものではないだろうか。正確に言えば、気にせずにいると出るというより、「他の人が発見してくれるもの」である。

だいぶ前の話だが、NHKのEテレ(教育テレビ)を見ていたら、「ある少女がホームステイにきた外国人を案内する」というショートストーリーが放送されていた。少女は弁当屋の娘で、親が弁当屋であることを恥じていてあまり見せないようにしていて、外に連れ出して日本の伝統文化などを紹介しようと躍起になる。しかし、案内されたその人は、伝統文化も良いけれども、たくさんの自販機が並んでいることに喜んだり、コスプレ大会を見て喜んだり、最終的には弁当を見て絶賛するのである。

日本らしさというのは日本人が意識しているような目立つものばかりではないし、ホームステイの外国人が興味を持ってくれたことで自分が日本らしさを認識できた、親がやっている弁当屋も少し好きになった、という話である。

逆に、自分のこだわりを変にアピールすると、人工的になって安っぽくなるしつまらないもののように感じられてしまうだろう。昨日今日始めた趣味でも、単に好きなのと、好きだとアピールしたがるのでは、受け止められ方が違う。単に好きな場合には、それを他の人が見たときに「へー、こういうのに興味持つんだぁ」と、その人に触れた感じがするかもしれないが、こういうのが好きだとアピールされたときには、なんだか安っぽくなったりその人らしさに触れた感じがしない。むしろ「らしさ」の足りない薄っぺらい人なんじゃないかなぁと感じられてくるのである。

男でも女でも、これが自分のスタイルだから、と意識すらせずにスタイルを持っている人は魅力的だろう。打算が入り混じると途端にカッコ悪くなる。

純粋に自分の心に従って行動するというのもなかなか大変ではある。打算が出てきたりカッコつけたりしたくなるのも分かるし校長も経験が多々あるが、結局「らしさ」は人工的に作れないし、自分が出すものではなく他の人が勝手に発見するものだ、と諦めたほうがいいだろう。純粋に自分の心に従って生きたほうが、人に愛着を持たれやすいし、どんどん「らしく」なっていくのである。











我々の心は、お互いに関心を持ち、唯一無二の存在として認識し合うことで支えられている。面倒くさくて効率の良くない世界こそ、心に優しい世界なのだということを、覚えておいてほしい。










我々はこうして、いろいろな人から、存在を唯一無二だと感じてもらい大事にされないと(つまり愛をもらわないと)、どんどん寂しくなるようにできている。ファーストフードやコンビニで大量生産された食事ばかり食べて、流れ作業で髪を切られるような床屋に通い、自分が自分でなくても問題ないような扱いを受け続けると、どんどん心が擦り減って寂しくなっていくのである。





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